誰にも聞けない状態で、何処のブログがいいのかを探すのは一苦労。
でも自分で一から探すから、自分に合った場所と出会えるというもの。
友人がもしブログをしていたら、友人の傍でブログを書くのも楽しい気がする。「それをここに書くか?」と友人に言われても私は「え~だって~、あなたの顔見たら言えないもの~」って友人の顔色や声のトーンを想像すると楽しかったりする。でも、私にはブログを書いている友人はいないから、一人ボソボソと呟くばかり。
どこにしようか探していた時、そこのブログの売りは何かを読んでいたら、吸い寄せられるように「はてなさん」でIDとかを取得していた。
どんなに親しくても、友人でも全部は話さない。でもここなら、、
『思いは言葉に』、この文字が光って見えました。
私の人生は、誰もが羨むような順風満帆ではない。なのにいつも勘違いをされる。素性が見えると蜘蛛の子散ったみたいにいなくなる。そんな彼らによく言われた言葉は「苦労してないのね」。一部の人には「なんでこの道を選んだの?そんなことしなくても暮らせるじゃない」傍から見るとそう見えるかもしれないけど、自由のない世界では息が詰まる。幼少期から社会人になる一歩手前まで父に殴られていた、といっても虐待まではいかない、父のいうことをきかないと殴られていた程度。すべて父が中心だった家が大人になるにつれ住みにくくなっていった。でもそんなこと言っても、「それはあなたが悪いんでしょう」と言われて終わり。結局は「そういう家の子として生まれた」とか「お金には一生苦労しない」という部分しか見られてない。実際にそうなのか自分に問うと、毎日お金で苦労してるということはないけど、必要最低限の生活費程度しかもらってないから趣味を作りお金をそこに当ててしまうと病院に行けなくなる。その面では余裕がないということを痛感した。それからは小銭貯金をサボらないようにしている。
傍から見える順風満帆そうな暮らしでも苦労はあり、常に激流や台風に巻き込まれている。でも自分なりに解決策を見つけたり、どうやったら居心地が良くなるかを探しながら、少しずつ自分なりに方向転換して住みやすくしている。
逃げる場所があるなら逃げてもいいけど、結局逃げる場所がないから、その世界で生きやすくなる道を探すしかないって思ったら、いつのまにか前ばかりを見て、気をしっかり持つような生き方を身に着けていた。
強くなんて生きたくないけど、強く生きないと父に殴られた時の衝撃はで心は立ち直れなくなる。
流石にもう私も父もいいお年なので、殴られることはないけど。
殴られた記憶は消えないので、心はいつも怯えてる感覚が残っている。
ここは、いいですね、静かで、人の顔色が見えなくて。
『ポカポカ陽気に漂いながら』そんな穏やかな気持ちを絶えず持ち続けていられたら、気持ちに浮き沈みがないかな、と思い付けてみました。
ブログを通じて、伝え下手を解消したいです。
ブログを通じて、心が晴れるようにしたいです。